経済学で見えてくるもの─女性の統計的差別を例にして

早稻田政治經濟學雜誌 No.395掲載,2019 年 7 月 新入生への講演の記録

経済学とは何でしょうか?経済の仕組みを研究する学問と定義されることもありますが,それは必ずしも正確ではありません。なぜなら経済学的な考え方や手法は,政治,教育,医療,マーケティング,会計,組織,はたまたスポーツ学といった幅広い分野に応用されているからです。

では経済学とは何でしょうか?

実は経済学には,経済学を経済学たらしめている 3 つの要素があります。重要なキーワードなので,ぜひ覚えておいてください。一つは,最大化行動,英語で言うとmaximization です。経済学が扱う主体(エージェント,個人や企業など)は皆,合理的に何かを最大化しようとしているという仮定です。人間は,誰しも自分が最も幸福になるように選択を行っており,企業は利益や企業価値が最大となるように戦略を立てている,といった仮定をおきます。

2つ目は,均衡,つまり経済主体全員が最大化行動をとった結果,経済の状態がどうなるかという分析を重視しています。英語で言うと equilibriumです。

3 つ目は,効率性という評価尺度を用いるということです。実は効率性というのは,最も誤解されている経済用語の一つです。経済学で使う効率性概念の基本は,パレート効率性と呼ばれます。かみ砕いて言うと,誰かを損させずに誰かに得をさせることが出来ない状態を効率的と呼びます。禅問答みたいで良く分からないですよね?でも,例を見るうちにだんだんと腹落ちしてくると思います。効率的ではない時は,誰かを損させずに誰かに得をさせることが出来るということなので,改善チャンスがあるということなのです。皆さんが早稲田で経済を学ぶ間に,ぜひ正しい「効率性」概念を学んで卒業していって欲しいと思います。


 これから,今申し上げた 3 つの構成要素を,差別という現象を通じて分かりやすく解説してみたいと思います。差別を初めて経済学を使って詳細に分析したのは,1992 年にノーベル賞を取ったGary Becker です。1957 年に「差別の経済学」という本を書いています。私の先生だったエドワード・ラジア教授の先生にあたる大先生で,学生の頃に何度か講演を聞きました。ベッカー先生は,初めて差別を合理的な行動として捉えた研究者です。不思議に思うかもしれませんが,差別には嗜好,つまり好き好んでする差別と,差別嗜好を持たない人による合理的なもの,つまり,差別した方が得だからする差別があります。

例えば,中小企業の社長が「俺は女は好かん。だから雇わん!」と言ったとします。これは嗜好として差別するケースです。ただその場合でも,自分の幸せ,満足感,効用を最大化するために差別しているので,経済学では合理的な経済主体と捉えられます。逆に,自分には差別嗜好はないけれど,顧客や従業員が差別をしている場合,雇い主もマイノリティを差別することで利得が上がるケースがあります。例えば,レストランのお客さんの多くが外国人を差別しているとします。店員に外国人が増えると客が減ってしまうかもしれません。オーナーに差別意識がなかったとしても,売り上げを維持するために,外国人を採用しないというのは,オーナーにとって合理的な選択です。

 では,人々が差別嗜好を持たなければ,世の中から差別は無くなるのでしょうか?必ずしもそうとは言えません。長年,日本の労働市場では女性が差別されてきました。1986 年に男女雇用均等法が施行される前は,多くの企業で,採用枠も賃金体系も男性と女性では別,女性は結婚したら辞めるという暗黙のルールがある企業が多かったのです。なぜ,多くの雇い主が女性の長期雇用を嫌がったのでしょうか?

 根本的な原因は実は家庭内分業です。大昔から現代に近い時代まで,便利な家電が入ってくるまでは,料理も掃除も洗濯も時間がかかりました。そのため,男性が市場労働に専従し,女性が家事育児に専念することが,夫婦の生涯所得を最大化する上で最適でした。多くの家庭が取る選択は,その社会の中での社会規範となり,人々の期待を支配します。その結果,女性はどんなに優秀でも結婚や出産を契機に辞めるという期待が形成されました。女性は皆 4-5 年以内に辞めるということが予想されるならば,研修にお金をかけて育てよう,難しい仕事を覚えさせて将来の幹部社員にしようとは雇い主も考えないでしょう。このようにして労働市場において女性が差別されるようになった訳です。

 こうして形成された差別を,統計的差別と言います。女性は多くが結婚や出産と同時に仕事を辞めるという統計的結果に基づき,合理的に女性の採用を控えたり,男性よりも成長機会も賃金も乏しい仕事しか与えなかったりという選択をすることになります。統計的差別は,経済学における均衡を形成しています。つまり,図 2 に描かれている経路を通じて,皆が合理的に行動した結果として,女性がキャリアを奪われているのです。


 合理的な判断と言いながら,この統計的差別にはいくつもの問題があります。まずは,公平性の問題です。同じ能力を持ち,同じキャリア希望を持つ男女がいたとして,一方は単に女性として生まれたという理由だけで,希望するキャリアから排除されてしまいます。2 つ目に,統計的差別は自己成就的です。女性は数年で辞めるという予想の元に,女性に十分な成長機会も研修機会も与えなければ,女性はこの会社には自分の未来はないと判断して実際に辞めてしまいます。つまり期待が裏付けられるわけです。3 つ目に,統計的差別を支えている均衡が,時代の変化と共にもはや効率的ではないことが明白になりつつあるのです。

 何故かというと,女性に対する統計的差別の原因となっている家庭内分業,つまり男性が外で働き,女性が家事育児に専念することが,家計にとっても国にとっても,必ずしも望ましい選択ではなくなってきているのです。何が変わったかというと,まずは技術の進歩が挙げられます。昔なら毎日 10 時間かかっていた家事が,今は 2-3 時間で済みます。本当に便利な世の中になりつつあります。2 つ目に,これは国の政策の影響も大きいのですが,保育施設が整備され,きちんと保育や幼児教育の知識を備えた保育士が増えてきました。昔は,3 歳までは親が育てた方が良いという「3歳神話」というのがあったのですが,核家族化で祖父母も兄弟もいない家で育てるより,保育所で教育を受けた方が,子供の将来に良い影響を与えるケースが多いことが分かってきました。最後に,人材不足で,女性労働を活用しないと経済成長を確保できない状況が生まれつつあることです。

 では,女性に対する統計的差別は無くなったかというとそうでもありません。表向きは男女平等と言っていても,仕事の与え方,情報の与え方,昇格審査における扱いなど,様々な面でまだまだ女性は不利な扱いを受けていることが指摘されています。なぜ,女性の統計的差別をなくすことがそんなに難しいのでしょうか?

 ちょっと先走り過ぎだ,と怒られるかもしれませんが,皆さんが早稲田大学で学ぶ科目の一つにゲーム理論があります。このゲーム理論を使って,女性の統計的差別が効率的ではないのに,なぜ社会がなかなか変えられないかという話をしたいと思います。

 ゲームには,3 つの構成要素があります。(1)プレーヤー,(2)プレーヤーの戦略,(3)戦略の組み合わせで決まる利得,の 3 つです。今,プレーヤーは,家計と企業です。それぞれ,2 つの選択肢があります。企業は,女性を差別するか,男女公平に扱うかのどちらかを選びます。家計は,女性が家事育児をすべて担うか,夫婦で平等に分担するかを選びます。それぞれの選択肢に対して,利得を当てはめてみましょう(図 3 参照)。それぞれのセルの 2 つの数字は,最初の数字が家計の利得,2 番目の数字が企業の利得を表しています。


 この時,多くの家計で女性が家事育児を担うという選択を取ると,何が起きるでしょうか?企業側が男女公平に扱っても,家計が今まで通りなら,女性は残業を一切できないとか,やれ子供が熱を出した,学校行事があるから休むなどと,女性だけが時間的制約がきつくなり,男性の賃金や処遇に見合った貢献を期待できなくなるでしょう。この場合,女性を差別する企業の方が,業績が良くなります。つまり,家計が女性だけが家事負担を担うという選択を取るのであれば,企業にとっての最適な戦略は,女性を差別することになります。この状況を,女性を差別した時の企業利得を 5,公平に扱った時の企業利得を 0 として表現します。家計は,男女公平に扱う場合,男性が損をして女性が得をするので,家計としてはプラスマイナスゼロとなり,家計利得は両方の場合で変わらないとします。

 次に,もし企業が女性を差別するのであれば,最適な家計の戦略はなんでしょう。女性の家事負担を減らして,もっと外で働けるようにしても,企業が女性を差別している限りは女性の所得は大して増えません。他方,家事を分担して夫が長時間労働できなくなると,会社での評価は下がって,ボーナスが減る,昇進機会を失うといった不都合が生じるかもしれません。結局,妻が家事負担を大部分担うことが最適となります。この場合の,家計利得をそれぞれ 5,0 と表現します。

 この時,企業が女性を差別して家計では女性が家事負担を担うことは均衡となります。でもこれは効率的ではありません。企業が男女を公平に扱い,家計が夫婦で平等に家事育児を負担しあうことが,家計にとっても企業にとっても最も生み出される価値が高いという経済状況が生まれてきています。表の右下の戦略の組み合わせも均衡になります。企業が男女公平に扱うのであれば,家計も夫婦で家事育児を分担することが最適です。また,家計が夫婦で平等に負担するのであれば,企業も男女公平に扱うことで優秀な女性を獲得できるようになります。

 非効率的な均衡から効率的な均衡に移ることはそれほど容易ではありません。企業と家計の対応が同時に代わる必要があるからです。北欧や北米では,1970 年代から 1990 年代にかけてこの変化が起きました(図 4 参照)。ただし,同じヨーロッパでもイタリアやスペインといった南欧の状況は日本と大きく変わりません。このグラフを見ると分かるように,均衡が変わるのに,20 年くらいかかる訳です。でも日本における少子高齢化のペースを考えると,20 年も待っていられません。国や自治体が急ピッチで保育所を整備したり,長時間労働を規制する法案を通したり,男性の育児休業取得率上昇を目指すための政策を取っている背景には,経済成長を促すには,今言った変化を起こすことが不可欠だと認識しているからです。


 さて,今日は,女性の統計的差別というテーマで,経済学の 3 つの構成要素,最大化行動,均衡,効率性,について話をしました。皆さんに期待することは 4 つあります。

 まず,経済学は,win-win を作り出す機会を考える,つまり改善機会を見つけるための学問であることを理解して欲しいと思います。2 つ目に,社会をより良い状態にするにはどうすれば良いか改善方法を考えるための理論的枠組みをいろいろと学んでください。3 つ目に,問題を可視化するための,データの扱い方を学んで欲しいと思います。世の中に多くの情報があふれ,企業の中にも多くのデータが蓄積されています。私の研究室にも,多くの企業の方が,社内データを用いて様々な課題を解決したいと相談に訪れるようになりました。データを活用するスキルは,これから社会に出るあなた方に期待される貴重な能力になります。

 最後に,弱者や不利益を被る人を切り捨てない温かい心を育んで欲しい。経済学徒にとって大事なのは,クールヘッド(cool head)ウォームハート(warm heart)。アルフレッド・マーシャルの有名な言葉です。大学 4 年間を大事に過ごしてください。

[新入生への推薦図書]

・『WORK DESIGN(ワークデザイン)行動経済学でジェンダー格差を克服する』
  イリス・ボネット著,池村千秋訳,NTT 出版,2018 年
・『オンラインデートで学ぶ経済学』
  ポール・オイヤー著,土方奈美訳,NTT 出版,2016 年
・『「原因と結果」の経済学──データから真実を見抜く思考法』
  中室牧子,津川友介,ダイヤモンド社,2017 年