積水化学工業株式会社 積寿会様 30周年記念誌への寄稿
「私、大学院で哲学を学びたい」
妻から相談を受けた時、正直驚きました。50歳を目前に仕事を辞め哲学の博士号取得を目指すというのです。私が経済学博士号を取るのに6年、哲学は恐らくもっとかかるだろう。ましてや20代の若者と違って、頭もそれほど柔らかくないし、身体も無理が効かない。博士号が取れたとして、就職口はあるか、あったとしても6-8年の投資で回収期間は良くて10年。今の給料を上回る年収が得られるとは思えず、どう見てもマイナスの投資だ。そう思って翻意を期待しましたが、妻の哲学を学びたいという情熱は変わりません。若い頃から哲学好きで、働きながら勉強会に参加したりしていたようです。出会った頃は、外資系でバリバリ働く管理職だったので、そんな一面があることに気が付きませんでした。私よりも稼ぎが多い彼女と結婚した時、これでお金のことは何も心配せずに研究に打ち込めると安堵したものです。しかし、私自身も7年務めた会社を辞めて留学を決意したので、勉強したいという彼女の気持ちが分からないでもありません。数か月にわたる話し合いの後、家計所得を大幅に減らす決断を二人で下しました。贅沢はできなくなりましたが、毎日夢中になって勉強している彼女を見て、良い決断だったと思います。
技術革新が学び直しを要求
最近、デジタルトランスフォーメーション(DX)という言葉を経済ニュースなどで耳にされた方も多いと思います。新しい情報技術(IT)や人工知能技術(AI)の活用の場が職場や家庭を含む社会全体で広がっており、それによってビジネスの仕方や業務内容が大きく変容することを指します。DXによって、必要なスキルも大きく変化します。昨年末にヤフーが全社員8000人を再教育し先端IT人材に転換すると発表して話題になりました。会社が将来の事業変化に合わせて社員を再教育することを「リスキリングre-skilling)」あるいは学び直しと呼び、多くの国でその必要性が叫ばれています。そこで出てくるのが、何歳までなら学び直せるか、という疑問です。
老いた犬は新しい技を覚えることはできない?
私の専門分野は労働経済学なので、授業の中で人的資本理論を教えます。人への投資も機械への投資同様、投資収益の現在価値(リターン)が投資額(コスト)を上回る時、効率的つまり「良い」投資となります。人的資本理論に従えば、職種転換を意図した学び直しは、せいぜい40代くらいまでで、50代以上の社員に時間もお金もかかる学び直しをしろと言っても割に合わないというのが合理的判断となりそうです。英語圏にも、
「年老いた犬は新しい技を覚えることはできない(” you can’t teach an old dog new tricks”)」という諺があります。
競争の激しい世界、特に身体能力の向上が試される分野ではそうかもしれません。テニスをされる方は、70年代末の複合素材ラケットの登場を覚えているかもしれません。それまでの木製のラケットと違い、複合素材ラケットは、より広い面と剛性の高いフレームを実現し、スピンのかかった力強い返しを可能にし、プロテニス選手の戦い方を大きく変えました。その結果、4大大会の優勝者は、1981-1983年の僅か2年の間に、木製ラケットのプレーヤーから複合素材ラケットのプレーヤーに入れ替わりました。その時期多くの年配のプレーヤーが引退し、プロ選手の平均年齢は低下したのです。
高齢者は学ぶ意欲が落ちる訳ではない
しかし、ビジネスの世界での技術革新は、プロテニスとはやや様相が違います。例えば、コンピューターを使った設計や製造のためのソフトウェアシステムは、CAD (Computer-Aided Design)、CAM (Computer-Aided Manufacturing)と呼ばれていますが、PCの普及と共に、80年代以降、広範囲に普及していきました 。この時期 、多くの技術者が、CAD-CAMの講習を受けています。先行研究が実施したンケート調査を見る限り、年配の技術者でも、業務知識が豊富な人は、新技術の習得にさほど困難を感じていませんでした。また、別な研究でも、働いている高齢者、特に専門的な仕事に就いている高齢者は、学習活動に頻繁に時間を使っていることが分かっています。「自分が選んだ仕事で必要だから」というのは、年配者でも学ぶ動機づけになっていることが分かります。
高齢者がタブレットなど新しいITツールを習得する際には、記憶力や認知スピードが低い分、若い人よりも学びに時間がかかる、学ぶことへの不安が大きい、マニュアルや指示が分かりにくいと感じる、といったことが先行研究で報告されています。しかし、そのツールの利点が理解できた時には使い続けたいと回答する人が若年者と変わらず多いことも事実のようです。高齢者は学びたがらないという常識は、単なる思い込みかもしれません。最近の医学研究でも、特定の病気が生じなければ、高齢になっても脳の海馬はニューロンを再生し続け、機能低下した部位があっても他の部位で補いながら脳の老化を防いでいることなどが明らかになってきています。
学ぶ意欲を削ぐのは組織や社会
高齢者の学ぶ意欲を、あるいはもっと広く日本人の学ぶ意欲を削いでいるのは、日本企業の制度そのものではないか、最近そういう思いを私は強めています。民間部門の(OJTを除く)人的資本投資をGDP比で比較すると、欧米主要国が1.5~2.0%を人材育成に費やしている中、日本は0.1~0.2%と10分の1しかありません。長年、日本企業が人材育成を軽視してきたことの表れです。伝統的に、戦後の日本企業では、キャリア形成を会社に任せる仕組みが維持されてきました。計画的に幅広い経験を身につけ人的ネットワークを構築させることで、社内調整能力の高い人材を育成してきたのです。しかし、近年その弊害が目立つようになってきました。その一つが自律的なキャリア形成意識が低く、自分が面白いと思う仕事に必ずしも就けていない人が多いことです。
国際社会調査プログラム(ISSP)という国際比較統計を見ると、仕事が面白いと回答している成人は日本は54%で、スイスの91%、米国の79%、イギリスの74%など欧米主要国を大きく下回っています。仕事が面白くなければ、そのために自分の技能を高めるようと考えず、自己研鑽意欲が低下します。パーソル総合研究所が2019年に行ったアジアオセアニア地域14か国・地域を対象する調査では、「自分の成長を目的として行っている学習や自己啓発活動はありますか」という質問に対し、日本だけ半数近い46%のビジネスパーソンが特に何もやっていないと回答しています。何もやっていない回答者の比率は、他国では、数パーセントから20%程度です。
学びには内発的動機付けが必要
では日本人は向学心が低いのかと言えばそうではありません。大学の公開講座受講者数は、コロナ禍前の時点で130-140万人、民間のカルチャースクールの受講者は、1000万人近くにのぼります。読書会や稽古事に通う成人も多く、「好きだから」「楽しいから」学ぶという人は多いのです。
人への投資と機械への投資の大きな違いの一つは、人への投資は内発的動機が重要な役割を果たすということです。学びが楽しければ、経済的には赤字の投資が、その人の幸せ(経済学では効用と呼ぶ)を最大化する上では「良い」投資となりえます。逆に学ぶことが苦痛であれば、経済的には黒字の投資が「悪い」投資となるかもしれません。歳を取るにつれ、学びの動機付けとして非金銭的な内発的要因の比重が高くなるので、金銭的なリターンとコストの比較では判断できなくなるのです。
高齢者の学びでは人とのつながりが大事
高齢者の場合、学んだスキルを自分はうまく使うことが出来るという自己効力感があれば、学びが促進されます。ですから自分が良く知っている業務でのIT導入にはさほど障害を感じないのです。また、教えてくれる人、一緒に学ぶ人がいることも学びを支えることが分かっています。特に、社会的なつながりや信頼感といった社会資本が蓄積されたコミュニティーでの学びの提供は効果的です。高齢者が学びを続けることで、つながりを維持し、周囲と会話し、メンタルヘルスの悪化や認知症の発症を抑えることも期待できます。
これからの人生100年時代には、社員が生涯を通じアクティブに働き活動し続けられるよう、仕事に必要なスキルはもちろんのこと、退職後につながる知識(例えば起業やボランティアや資産運用など)も、eラーニングや講習会など様々なチャネルで提供することが企業に求められるかもしれません。積寿会が、皆様の学びを支えるコミュニティーの役割を果たされることを願っています。